「種を蒔く人も刈る人も供に喜ぶ」 ヨハネによる福音書4:31~42

「小羊の会」2022年11月17日

 法亢聖親牧師からのメッセージ

「種を蒔く人も刈る人も共に喜ぶ」  (ヨハネ4:31~42)法亢聖親牧師

 ヨハネ福音書4章の32節からは、テーマが水から食べ物に変わっています。最後にパンというテーマとなって聖餐式やみ言葉(命の糧)を表すことになります。
 サマリアの女は、水を井戸に汲みに来たのに、水瓶を置いて町に飛んで帰り、町の人たちに預言者(メシア)に会ったことを告げ知らせました。彼女は、イエスさまと出会うことによって命の水を得たのです。自分の罪を告白し、イエスさまの赦しと霊(新しい命)をいただき、喜びに満たされたからです。本当に心を満たしてくれるものは、この世のものではないのです。この女性のしたことは、異邦人伝道の始まりです。
「あなたがたは、『刈り入れまでまだ4ヶ月もある』と言っているではないか。わたしは言っておく。目をあげて畑を見るがよい。色づいて刈り入れを待っている。」(35節)
 サマリアの女の伝道により、サマリア人がイエスさまのもとに集まってきました。この様子をご覧になってイエスさまはこのように言われたのです。
 「刈り入れる人は報酬を受け、永遠の命にいたる実を集めている。こうして、種を蒔く人も刈る人も、共に喜ぶのである」(36節)という主張が記されています(アモス9:13)。
 またここで初代教会の一つの問題点が述べられています。信仰者の歩みも、教会の歩みも、時が良くても悪くても、神のみ言葉を語っていこうとします(証と伝道)。しかし、その時に、ユダヤ人に種を蒔いている人も刈り入れる人も、異邦人に種を蒔いている人も刈り入れる人も同じ喜びにあずかっている、霊にある交わりの喜びは、こういうものであるということを、ヨハネ福音書記者は、ここに語ったのです。すなわち「教会がまことに霊の交わりを持っているとするならば、この喜びにおいて、私たちは一致できるのだ」と語ったわけです。ここまで話が展開して、最後にこの物語は、見事なエピソード(4:39~42)で終わるのです。
 この女性は、この人は預言者に違いない、この人は救い主に違いないと言い回りました。「この方が、わたしの行いをすべて言い当てました。」と証言したのです。単にイエスさまが奇跡を示しただけの話なのですが、彼女の話を聞いた多くのサマリアの人々がイエスさまを信じたと書かれています。
 「彼らは女に言った。『わたしたちが信じたのは、もうあなたが話してくれたからではない。わたしたちは自分で聞いて、この方が本当に世の救い主であると分かったからです。』」(42節)
 キリスト教の信仰は、本当に自分が主に出会って初めて成り立つものです。
 キリスト教は、単に一つの民族の宗教ではありませんし、また一つの教会に属したことによって自動的に信仰が与えられるものでもありません。自分の人生において、本当にこのお方が世の救い主であると分からなければ、信じるという言葉はつかえないという言葉で、この物語は締めくくられています。命の水、永遠のいのち、霊とまことの礼拝、これらを語りながら、信仰を生きることが、どれほど素晴らしいものであるかを、この物語は語っているのです。
 最後にイエスさまが与えてくださる食べ物とは、何でしょうか。
 「わたしの食べ物とは、わたしをお遣わしになった方の御心を行い、その業を成し遂げることである。」(ヨハネ4:34) 
 イエスさまがお答えになられたように、イエスさまの与えてくださる食べ物とは、神の救いのみ業の完成、また愛の完成である十字架の出来事を指します。具体的には、隣人愛に生きることです。つまり内なる人(私たちがイエスさまからいただいた霊)を養う食べ物は、神の命そのものであるみ言葉と聖餐なのです。これらが私たちの霊の糧なのです。

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